9月3日から9日にかけて繁昌亭ならびに動楽亭で六代目笑福亭松鶴生誕百年祭の記念落語会が開かれました
発起人は直弟子の笑福亭鶴笑さん。
昨年の彦八まつりで一門の方々に、来年は師匠の生誕100年なので
大々的に祝う落語会をしたいと提案したところ、以外にも否定的な声が多かったようだ。
理由は「無理やろ」
一門を代表して何人かが落語会を開催することは出来ても、全員が集うとなるとなかなか実現は難しい。
それはそうだ。
しかし鶴笑さん、諦めませんでした。
想いを同じくする竹林、岐代松、伯枝、鶴二の各兄弟弟子とともに先輩や後輩を一人ずつ説得。
福笑師匠は「普段大人しいやつが言い出したんやから、考えてもええんとちゃうか」
鶴瓶師匠は「わかった、おまえの考えでいけ」
鶴笑さんは、全員出演ということにこだわっていた。
先輩方のなかには「直系だけでええんとちゃうか、孫弟子まで全員となると70名を超える。どない考えても無理やで」
至極当然の意見だ。でも鶴笑さんはそれでも全員出演にこだわった。
繁昌亭の昼席で一週間記念ウィークとしてやろう。
それだけでは足りないので夜席も朝席も、動楽亭も使わせてもらおう。
それからまた全員への根回しが始まった。
なんせ74名にもおよぶ落語家を一週間で全員出演させる。
どこに誰を配置するか。スケジュールはどう押さえる?
ここで笑福亭のというより今や上方落語協会の頭脳ともいうべき笑福亭たまさんが
持ち前の頭脳をフル回転させてシュミレーションを行い、年季のことやそれぞれの個性、
色合いなどを考え、落語をする人、大喜利をする人などに振り分け、なんとかプログラムを作り上げた。
そうした意気込みを感じてくれたものか、先輩たちも快く引き受けてくれて今回の大イベントとなりました。
しかし、一門の誰もが気にしていたことがひとつ。
一門の筆頭、笑福亭仁鶴師匠。
ご高齢ということもあり、昨年来、公の席には姿を見せておられません。
落語をしなくなって久しい。
仁鶴師匠抜きでは仏作って魂入れずのようになってしまう。
はたしてどういう具合に参加していただくか。
とにかくお願いする他ないと、仁鶴師匠に手紙を出した。
落語はともかく、一週間のうち一日は絶対来てくれるだろう、という期待を込めて。
すると思いがけずも仁鶴師匠から原稿が届いた。
師匠の想い出を300文字で。
もちろんこれはこちらから頼んだわけではない。仁鶴師匠が自発的にやってくださったこと。
そして初日には舞台挨拶まで。
一門曰く「松鶴が動かした」
全公演大入り満員!
ときどきやったら・・・の質問に鶴笑さんが
「もう二度とできません。この一週間は奇跡でした。もう一回やったら私は死んでしまいます」
六代目笑福亭松鶴師匠の人徳と、師匠を慕う一門の弟子さんたちの想い、
そしてなにより笑福亭鶴笑さんの文字通り命懸けの奮闘によって開催できた本当に奇跡の一週間でした。
あっぱれ、鶴笑!!!
六代目笑福亭松鶴
1918年8月17日生まれ 大阪市出身。
二代目上方落語協会会長。
五代目笑福亭松鶴の実子。
若い頃から父の手伝いをし落語に関わる。
1947年父に正式入門し笑福亭松之助を名乗る。
その後、光鶴、枝鶴を経て、1962年六代目笑福亭松鶴を襲名。
島之内寄席や千里繁昌亭など定期的な落語会を開催し、
衰退していた上方落語を桂米朝、三代目桂春團治、桂小文枝(のちの五代目桂文枝)らと共に隆盛に導く。
上記3人を含めた上方落語四天王のリーダー。
1981年、上方の落語家としては初めて紫綬褒章を受章。
1986年9月5日没
文・桂枝女太
写真・月亭天使