笑福亭仁勇師(59)が12月16日、脳幹出血のため亡くなりました。
12月11日に不調を覚え、自分で救急車を呼び病院へ搬送される途中に意識不明となり
5日後の16日、ついに目覚めることなく帰らぬ人となりました。
1977年(昭和52年)笑福亭仁鶴師に入門。
落語はもちろん、コント集団「パイレーツ」のメンバーとして、
なんば花月や梅田花月、またNGKなどの舞台で活躍しました。
彦八まつりでは第1回から実行委員を務め、さまざまな企画を考案し
それを実行してきました。彦八まつりではなくてはならない人でした。
また上方落語協会のオフィシャル広報誌「んなあほな」の名付け親でもありました。
芸能活動以外では地域事業に非常に熱心で、
住まいのある淀川区の多くのイベントに関わっていました。
学生時代から神社仏閣や歴史に興味を持ち、その知識は相当なものでした。
またスポーツの方でも落語家の草野球チーム「モッチャリーズ」の
初期からのメンバーで、主な守備は捕手、足も速くほとんど毎年盗塁王でした。
「地域活動に熱心で、いっぱい種を撒き、さぁこれからその種が実を結ぶというときに・・・
本人が一番悔しかったと思います」(一門代表として挨拶に立った笑福亭仁智師)
来年は還暦。噺家として一番良い時期を迎えるはずだったのに。本当に残念です。
【告別式でのお囃子の写真】
夫人はお囃子の故・山澤由江師。その由江師が、仁勇さんにはこの曲をと決め、
若い頃使っていた出囃子「宮さん宮さん」に送られ、極楽寄席へと旅立って行きました。
先に逝った由江師と再会し、一人娘は俺が立派に成人させたでと、自慢していることでしょう。
合掌
文:桂 枝女太