公益社団法人 上方落語協会

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会長のご挨拶 12月

 いつも上方落語をご贔屓いただきありがとうございます。
 いよいよ令和元年も残すところ一カ月となりました。
 皆様にとりまして、ことしはどんな一年でしたでしょうか。
 天満天神繁昌亭も平成から令和になった今年7月、お客様はもちろんのこと、たくさんの関係者の皆さまのお力添えでリニューアルオープンし、新たな歩みを始めました。
 まさに感謝の一年でした。

 さて先日、熊本で落語会があり、それを知った旧知の熊本県山鹿市在住のお二人の方からご連絡いただき久しぶりにお会いしました。
 方や浄土真宗本願寺派の寺のご住職で、節談説教復活に尽力され、米朝師匠の楽屋に押しかけ、節談説教の話を熱弁し、米朝師匠が感心され、以来節談説教の話では弟子気分で、それをエンジンに精力的に活動されてる説教師さん(因みに米朝師匠に内緒で僭越ながら、私が芸名をつけてあげました。柱朝刊、なぜならケサきてキョウよむ)。
 此方、葬祭会社の社長さん。山鹿で有名な芝居小屋「八千代座」復興に尽力され、2001年改修竣工以来、坂東玉三郎さんの招聘窓口として、八千代座そして山鹿振興発展の一翼を担っておられる地元名士。旧交を温める話が弾むなか、忠臣蔵ゆかりの堀内伝右衛門の顕彰碑建立の話となりました。今その寄付集めに奔走されてるそう。
 以下、その経緯が赤穂民報に掲載されているので、引用させて頂きます。
 元禄赤穂事件後に義士の遺髪を知行地に葬って供養した肥後細川家家臣、堀内伝右衛門の功績を後世に伝えようと、ゆかりの熊本県山鹿市の市民有志が記念顕彰碑の建立を計画している。
 細川家は討ち入り後の義士が預けられた4家の一つで、大石内蔵助はじめ17人が切腹までの間を過ごした。接待役だった伝右衛門は義士の世話を親身に尽くし、義士たちから聞き取った話を書き留めた「堀内伝右衛門覚書」は事件研究に欠かせない貴重な史料となっている。
 伝右衛門は17人からもらい受けた遺髪を知行地の山鹿に持ち帰り、日輪寺に遺髪塔を建立。83歳で亡くなるまで供養したという。その後も「堀内組」と呼ばれる地元集落の住人たちが遺志を継いで代々世話を続け、2005年には市民有志による「平成堀内組」が発足。現在も毎年2月4日の義士命日に遺髪塔前で慰霊祭の「義士まつり」が営まれている。
 記念顕彰碑の建立は「地元が誇れる武士(もののふ)として末永く伝えたい」と平成堀内組が計画。伝右衛門の紹介文などを刻んだ石碑(高さ約1・2㍍、幅約1・5㍍)を同寺の賛同を得て遺髪塔のそばに設置し、来年の「義士まつり」で除幕する予定だ。今年8月から協賛を呼び掛けたところ、地元だけでなく赤穂、東京などにも支援が広がり、これまでに目標額の約3分の1が集まったという。 平成堀内組の頭取、宮川政まさ士し さん(69)=山鹿市熊入町=は「赤穂のみなさんにもご協力いただけてありがたい。顕彰碑によって堀内伝右衛門が広く知られるようになれば」と話している。(以上、11月9日付)

 その宮川さん、近々赤穂にあいさつに出向く予定とのこと。
折しも、私も次の日曜日に赤穂のお寺で公演があると話をしていると、そのお寺が赤穂浪士ゆかりの寺だったのです。
 四十七士の一人、中村勘助自作の位牌が現存している浄専寺。
 刃傷事件の後、江戸下向の折、もし帰ってこなかったら祀ってほしいと住職に託したそうです。
 現住職のお話では、赤穂で備前の侍に刀が触れたと言いがかりをつけられ、刀を抜けと言われた時、仇討ちのため土下座をして謝り、それを見た周りの者たちが、赤穂の武士も落ちぶれたものよと嘲笑ったが、後日討ち入りことを伝え聞き、皆が深いこころを持った人格者であったと涙を流し偲んだということです。

 「出し物に困れば忠臣蔵」と言われるくらい、日本人は忠臣蔵が大好き。日本人好みの「忠臣」、「主君の仇討ち」、まさに、「ワンチーム」となって本懐を遂げるが・・・。感動の結末。
 人形浄瑠璃、歌舞伎に始まり、舞台、映画、小説、絵画、浮世絵、歌、浪曲、大河ドラマ等など。そして極めつけは講談。本伝、銘々伝、外伝と毎日読んでも一年以上かかるという。
 もちろん落語でも特にこの時期、高座にかかる忠臣蔵を題材にした噺。「七段目」、「蔵丁稚」、「質屋芝居」、「中村仲蔵」、「淀五郎」など、新作でも「花曇り忠臣蔵」(文枝師)、「AKO48」(八方師)、「椿説忠臣蔵」(仁智。すみません。私は今ほとんど演りません)等、この12月いろんな落語会で口演されます。
 
 師走の風物詩「忠臣蔵」を題材にした落語を、是非繁昌亭でお楽しみください。
 お待ちしております!
 そして、少し早いですが、今年一年ありがとうございました。よいお年をお迎えくださいませ。

上方落語協会会長
笑福亭仁智