公益社団法人 上方落語協会

search
loading

上方落語の始祖たち

元禄

上方落語の始祖たち

京都に露の五郎兵衛、大坂に米澤彦八が現れ、
神社の境内などで滑稽な話を演じて人気を博す。
この二人を上方落語の始祖とする。

寛政〜嘉永

上方落語の始祖 書籍

寛政時代に初代 桂文治が初めて寄席をつくり落語を演じる。
その後、現在でもおなじみの、
笑福亭、林家(屋)、月亭などを名乗る落語家が登場する。

明治の隆盛と昭和の衰退

幕末〜明治

幕末の頃、桂の系統から初代 桂文枝が登場し、
笑福亭、林家、立川とともに4派を形成。

演題帳

明治の落語家

桂派と三友派。

文枝門下の四天王と称された文三・文都・文團治・文之助の中から、
文三が第二代 文枝を襲名し桂派を継承すると、他の3人が笑福亭と結んで浪花三友派を結成。
桂派・三友派が鎬を削り明治期の隆盛を迎える。

大正

吉本花月連

吉本花月連

吉本花月連に統一。

明治末になると二大派閥体制が崩れ群雄割拠の時代となる。
大正11年、新興の吉本興行部が演芸界を統一し吉本花月連となる。

昭和初期

楽語荘

大阪の演芸界が漫才中心となり、
落語の衰退に危機感を持った五代 笑福亭松鶴らが「楽語荘」を結成。
上方落語の保存と継承のため、落語公演と機関誌「上方はなし」の発刊を行う。

戦後復興

昭和20年11月21日

落語研究『上方はなし』を聴く会 案内はがき

楽語荘の同人が四天王寺本坊客殿で
「落語研究『上方はなし』を聴く会」を開催。
戦後大阪で初の落語公演。

昭和22年9月11日

寄席ポスター

戎橋松竹開場。
戦後初の落語を中心にした常打ち演芸場(寄席)の開席。

昭和24年4月23日

関西演芸協会

関西演芸協会発足。名を連ねた落語家は次の13名。

笑福亭松鶴(五代)・桂春團治(二代)・立花家花橘(二代)・桂米團治(四代)
・桂文枝(四代)・橘ノ圓都・文の家かしく(三代 笑福亭福松)・桂文我(五代 文吾)
・笑福亭光鶴(六代 松鶴)・桂あやめ(五代 文枝)・桂小春(三代 春團治)・桂米朝・桂米之助。

昭和25年~28年

笑福亭松鶴・桂春團治・立花家花橘・桂米團治が相次いで亡くなり、
「上方落語は滅んだ」と報道される。

上方落語協会設立前史

昭和28年5月24日

大阪落語倶楽部

上方落語の意気を見せようと「大阪落語倶楽部」が発足。
月に一度料亭「暫」を会場に落語会を開催。
名を連ねたのは次の36名。

橘ノ圓都・橘家圓坊・橘家小圓太(五代)・林家染語楼(三代 染丸)・林家小染(三代 染語楼)
・林家染輔・笑福亭光鶴(六代 松鶴)・笑福亭松之助・笑福亭小つる(和多田勝)・三遊亭志ん蔵
・三遊亭花遊三・文の家かしく(三代 笑福亭福松)・文の家恋しく・文の家文福・桂文團治(四代)
・桂福團治(三代 春團治)・桂南天・桂米朝・桂春治・桂春坊(二代 露の五郎兵衛)
・桂春太郎(三代 玉團治)・桂米治郎・桂米之助・桂文枝(四代)・桂文吾(五代)
・桂小文吾・桂輔力・桂團治・桂藤松・桂米太郎
・桂小米喬・桂麦團治・桂梅團治(二代 三遊亭百生)・桂文蝶・桂小さん・旭堂小南陵(講談師〉。

昭和29年3月21日

「戎松落語日曜会」が大阪日日新聞社の主催で再開。

昭和30年4月18日

ABC上方落語をきく会

ABC上方落語をきく会

高麗橋三越劇場での「三越落語会」がスタート。
同年12月1日からは同劇場で朝日放送主催「ABC上方落語をきく会」が始まり、
その後NHKなど各局でも落語会が行われる。

この頃から、のちの四天王(松鶴(六代)・米朝・春團治(三代)・文枝(五代)ら
若手落語家を中心にした活動が活発になる。

昭和31年12月

若手落語家の忘年会席上で、親睦団体もしくは協会結成の機運高まる。

昭和32年3月23日

「大阪落語親睦会」の結成を予定するも、さらに議論を重ねることとなる。

上方落語協会誕生

昭和32年4月1日

この前後に持たれた議論の経緯から、
後にこの日を「上方落語協会創立日」と定める。

昭和32年4月12日

「大阪落語親睦会」結成の検討から「上方落語協会」設立へ。
規約及び役員について話し合われる。

昭和32年4月18日

林家染丸(初代 会長)

染丸 四天王写真。結成の新聞記事

三代 林家染丸を会長に、「上方落語協会」が結成される。
(公式な設立日は後に4月1日とした)
会員18名と名誉会員5名。

– 会長 –
林家染丸(三代)

– 幹事 –
笑福亭枝鶴(六代 松鶴)・桂福團治(三代 春團治)・桂米朝
・桂小文枝(五代 文枝)・旭堂小南陵(三代 南陵)

– 会員 –
桂米之助・笑福亭松之助・桂我太呂(三代 文我)・桂小春(祝々亭舶伝)
・桂文光(四代 文紅)・桂米治郎・橘家円之助・笑福亭小つる(和多田勝)
・笑福亭福三郎・笑福亭福郎(初代 森乃福郎)・笑福亭福柳・文の家速達

– 名誉会員 –
旭堂南陵(二代)・橘ノ圓都・笑福亭福松(三代)
・桂文團治(四代)・桂文枝(四代)

昭和32年5月4日

土曜寄席案内

土曜寄席案内

協会主催の「落語土曜寄席」が道頓堀文楽座で始まる。
以後、京阪神であいついで落語会の定期公演が始まる。
(6月12日「神戸寄席」・9月23日「京都市民寄席」・10月24日「三越落語会」が協会主催に)

昭和33年5月1日

角座 昭和37年1月

道頓堀「角座」が演芸場としてオープンする。
以後、演芸場のオープンが続く。

(11月1日「千日劇場」・34年3月1日「うめだ花月」・7月1日「神戸松竹座」
・37年7月1日「京都花月」・38年7月1日「なんば花月」)

協会員50名を目指す

昭和35年1月1日

上方落語協会会員名簿

野球写真

「上方落語協会会員名簿」発行される。
掲載されたのはお囃子も含め35名、会員は25名。

– 会長 –
林家染丸(三代)

– 幹事 –
笑福亭枝鶴(六代 松鶴)・桂米朝・桂春團治(三代)・桂文紅

– 会計 –
旭堂小南陵(三代 南陵)・桂小文枝(五代 文枝)

– 顧問 –
旭堂南陵(二代)・桂文團治(四代)・橘ノ圓都・笑福亭福松(三代)

– 会員 –
笑福亭松之助・桂米之助・笑福亭小つる(和多田勝)・桂米治郎
・桂小春(祝々亭舶伝)・桂我太呂(三代 文我)・橘家円之助・笑福亭福三郎
・笑福亭福郎(初代 森乃福郎)・桂小福・桂木久丸・林家染奴(月亭可朝)
・一・一(三代 林家染語楼)・桂春坊(二代 露の五郎兵衛)・笑福亭花丸
・桂一春(四代 福團治)・桂若春・桂玉團治(三代)

– 囃子 –
林家とみ・瀧野光子・見波よし・池中スエ・上戸八重子・平松元女

昭和39年4月1日

なにわ芸術祭

「なにわ芸術祭上方落語名人会」始まる。

昭和40年9月4日

「角座落語会」始まる。

42年8月12日には「うめだ花月上方落語会」がはじまり、
漫才が中心であった演芸場で、通常興行とは別に
定期的に落語だけの会が開催される。

昭和43年8月

笑福亭松鶴(二代 会長)

笑福亭松鶴が第二代 上方落語協会 会長に就任。

協会員をまずは50名にすることを目標に掲げる。
このとき会員は35名。

昭和45年

深夜放送 パチョン

3月から半年間にわたり大阪万博が開催され、
大阪の街は活気に溢れ、演芸場も大盛況となる。

また、ラジオでの若手落語家の起用が増え、
大学に落語研究会が発足するなどして若者に落語が見直され、入門者が増える。
この年に会員数が50名を超える。

上方落語ブーム到来

昭和46年11月11日

1080分落語会

1080分落語会

朝日放送開局20周年記念
「1080分落語会(1010khz+20周年+出力50kw)」が開催され、協会員56名が出演する。

昭和47年2月21日

島之内寄席

島之内寄席パンフ

協会主催の落語定席「島之内寄席」が、
南区千年町の島之内教会を会場に開席する。

月5日間の興行。
第1回公演には日替わり出番で50名が出演する。

「島之内寄席」はその後会場を変え、現在も継続開催されている。

昭和47年8月12日

若手落語家の勉強の場として協会協賛で「岩田寄席」が始まる。
地域寄席の先駆け。

昭和47年12月

第1回「上方お笑い大賞」に笑福亭松鶴と桂米朝が選ばれる。
上方落語ブーム到来の象徴的なできごと。

昭和48年1月22日

千里繁昌亭

千里繁昌亭

協会主催2つ目の定席「千里繁昌亭」が千里セルシーホールを会場に開席する。
月2日間の興行。
「繁昌亭」の名は現在の「天満天神繁昌亭」に受け継がれる。

昭和50年12月

朝日新聞と協会の共催で歳末助け合い
「朝日上方落語名人選」がこの年から始まる。

昭和52年12月20日

桂春團治(三代 会長)

桂春團治が第三代 上方落語協会 会長に就任。

協会設立
四半世紀を経て

昭和56年11月

笑福亭松鶴が上方落語界初の紫綬褒章を受章。
上方落語の復興に尽くした功績が受章理由。

この年、協会員が100名を突破する。

昭和57年10月19日

25周年記念パーティー

上方落語協会創立25周年記念パーティーが開催され、記念誌が発行される。

昭和59年1月

桂小文枝(四代 会長)

桂小文枝(五代 文枝)が第四代 上方落語協会 会長に就任。

昭和59年4月

「島之内寄席」が料亭暫に移転し「島之内寄席 暫亭」として再開する。

昭和62年11月

「島之内寄席」が心斎橋・CBカレッジに移転。

平成2年9月5日

彦八の碑

彦八の碑

大阪落語の祖である初代 米澤彦八の顕彰碑を、五代・六代 松鶴の遺志を継ぎ、
笑福亭一門が中心となって、生國魂神社境内に建立。

平成3年9月5日

第1回彦八まつり

前年建立された米澤彦八の碑の供養祭、
ならびの協会員相互の親睦の場とすることを目的に、生國魂神社境内で
第1回「上方はなし彦八まつり」を開催。

平成6年4月1日

露の五郎(五代 会長)

露の五郎(二代 五郎兵衛)が第五代 上方落語協会 会長に就任。

平成8年4月19日

桂米朝が上方落語界初の重要文化財保持者(人間国宝)に認定される。

平成8年11月15日

大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)がオープンする。
「島之内寄席」が翌年4月からワッハ上方レッスンルームに移る。

平成10年2月6日

上方落語協会創立 40周年記念パーティー

上方落語協会創立40周年記念パーティーがホテル日航大阪で開催され、
記念誌が発行される。

平成11年4月10日

上方落語の祖の一人とされる露の五郎兵衛の顕彰碑が、
京都北野天満宮境内に建立される。

新たな時代へ

平成15年7月23日

桂三枝(六代 会長)

桂三枝(六代 文枝)が第六代 上方落語協会 会長に就任。

平成16年8月25日

社団法人化して正式名称が「社団法人上方落語協会」となる。
桂三枝が社団法人上方落語協会 会長に就任。

平成18年9月15日

天満天神繁昌亭

天満天神繁昌亭

上方落語界悲願の落語定席「天満天神繁昌亭」開席。
戎橋松竹開席から数えて60年ぶり。

平成19年11月

繁昌亭のスターを作ることを目的に、
入門25年以下の中堅・若手を対象に贈られる
「繁昌亭大賞」(大賞・奨励賞・爆笑賞・創作賞・輝き賞)が制定され、
第1回大賞に笑福亭三喬が選ばれる。(輝き賞は入門10年以下)

平成20年10月28日

第1回「上方落語台本募集」の審査結果を発表。
433作の中から、大賞には「天神祭」(冨田龍一作)が選ばれた。

平成20年12月

協会員が200名を超える。

平成21年11月3日

桂米朝 文化勲章を受章

桂米朝が演芸界初の文化勲章を受章。

平成23年4月1日

3月に内閣府より公益社団法人の移行認定を受け、
「公益社団法人上方落語協会」に移行登記する。

平成23年10月19日

上方落語寄席発祥の地顕彰碑 除幕式

坐摩神社境内に
「上方落語寄席発祥の地顕彰碑」を建立する。

平成24年4月26日

上方落語協会会館

上方落語協会会館が竣工。

平成25年8月

天満天神繁昌亭の入場者数が100万人を突破。

平成27年11月21日

昭和20年11月21日に四天王寺本坊客殿で
「落語研究『上方はなし』を聴く会」が開催されたことを顕彰し、
天満天神繁昌亭で「終戦後復活落語70周年記念 落語会」を開催。

平成28年10月11日

午後9時45分に開演する
深夜寄席「乙夜(いつや)寄席」が天満天神繁昌亭でスタート。

平成29年10月18日

上方落語寄席発祥の地顕彰碑 除幕式

大阪天満宮・星合池(通称亀の池)のほとりに
「髙坐招魂社」を建立する。

平成30年6月1日

笑福亭仁智が第七代上方落語協会 会長に就任

笑福亭仁智が第七代上方落語協会 会長に就任。

令和元年7月1日

天満天神繁昌亭リニューアルオープン

天満天神繁昌亭リニューアルオープン。

現在

上方落語の歴史は脈々と受け継がれる。