月亭方気 つきてい・ほうき
石川県七尾市出身 2013年6月 月亭八方に入門
郷里の石川で活躍! 震災を乗り越えて
≪吉本興業の地域プロジェクト「よしもと住みます芸人」(※1)として、拠点を大阪から石川県金沢市に移している。2024年1月1日の能登半島地震の発生時は、同県七尾市の実家で団らんの時を過ごしていた≫
金沢で活動を始めて、7年になります。あの大地震の日は妻と子どもを連れて七尾の実家に帰省していました。水族館の見物から帰宅し、おせち料理を並べてみんなでお祝いするところでした。
16時すぎ、私が「笑点」の正月特番を見ようとテレビを点けたとたん、いきなりぐらぐら揺れました。これが震度4の前震。
いったん揺れがおさまり、改めて「新年おめでとう・・」と乾杯するところで、さっきより大きな揺れが。これが本震で、震度6強です。家具が倒れ、冷蔵庫の扉がばたばた、勝手に開閉してました。
津波警報が出たので、家族全員で高台へ避難しました。幸い、津波の被害はなし。
仕事の都合もあり、その後、金沢の自宅と、親が住む七尾の実家を何べんも往復することになりました。
実家では断水が3ヵ月、続きました。なじみの銭湯から井戸水をもらってきて貯めたり、給水車を利用したり。断水が一番大変でしたね。
≪ボランティアとして避難所を巡回し、被災者に落語を聴いてもらったが・・≫
震災直後、所属の吉本興業から「ギャラなしでよければ・・」という条件で依頼があり、県内の避難所を何ヵ所も回って落語を演じました。ダンボール製のベッドが並んでいる状態です。お客さんの雰囲気はどよ~んと暗い。何とか笑っていただこうと、あえて地震のこともネタにしたら、下を向いて泣き出すお客さんもいて。辛かったですね。
石川県志賀町富来地区の避難所にて。左にダンボールベッドが並んでいる
その後、石川県が組んだ震災復興関連の予算で、被災者を元気づけるための落語会が月に3回企画され、これも出演したんです。今度もお客さんの反応が心配でしたが・・
震災直後と違い、フツーに笑うてくれはったのがうれしかった! 笑えるだけの心のゆとりを被災者の皆さんが少しずつ取り戻していることを実感できて、ホッとしました。
師匠・八方との共演で慰問落語会も実現できて、皆さんに楽しんでいただきました。
よしもとあおぞら花月(七尾市)
≪地元・七尾の高校を卒業後、関西大学へ進学。当代桂文枝をはじめ多くの落語家を輩出している名門の落語研究会に入った。だが、没頭したのは・・≫
実は落語はやってません。ドイツ人の留学生とコンビを組み、漫才にのめり込んだんです。
コンビ名は「アルトバイエルン」。この留学生、ベルリン大学から来た秀才でした。日本でいえば東大でしょう。日本の文化、芸能を学びたいと来日して、落研に入ったらしい。正座がでけへんから落語はムリで、漫才をやることになりました。
私との相性は良く、尼崎の素人漫才コンクールで最優秀賞をいただきました(※2)。
その舞台を見ていた松竹芸能のマネージャーからスカウトされ、学生の身でプロデビュー。
驚きの展開でした。
≪2006年から3年間、松竹芸能所属の漫才師としてB1角座などに出演した。だが、相方がドイツに帰国してコンビ解消。しばらく、お笑いの世界から完全に退いた≫
漫才を辞めてから、オリックス大阪本社に3年間、勤務しました。その期間、生の舞台もテレビも、お笑いは一切、見ませんでした。自分ではきっぱり区切りをつけたつもりだったんですけど・・。
会社の忘年会の余興に来演された吉本のピン芸人、三浦マイルドさんが、めっちゃウケてはるのを見て、思いました。うらやましいな、と。同時に、もういっぺん、お笑いの世界で勝負してみたい気持ちが抑えられなくなっていきました。
≪一人で演じる芸に魅力を感じ、落語家になることを決意。入門したのは、あの伝説の師匠だった≫
YouTubeも含め、落語を聴きまくった末、月亭可朝師匠(※2)に弟子入りを願い出ました。昭和の芸人そのもの、というかたですよね、落語より、可朝師匠その人に興味を持ったのが志願の理由でした。
修業生活では、細かいことまで厳しくしかられました。
靴のそろえ方一つとってもそう。師匠が楽屋に到着して脱いだ靴を私がすぐさまそろえたら、それだけでダメ出しです。
「そないして、わしが見てるとこで靴をそろえたら、わしがええ加減に脱いだみたいやろ。
そんなんは、わしが見てへんとこでさりげなくやれ」。
お客様に対してもそういう気配りをせよ、という教えです。
厳しいけど、繊細で、お気づかいが細やかな師匠でした。世間に知られている破天荒なイメージは。わざと作ってはった。それが修業中にわかったことでした。
落語の稽古は、3時間だったら最初の2時間はえんえん説教です(笑)。
稽古を通して感じたのは、可朝師匠の、落語に対する深い愛情でした。
≪諸々の事情により、2013年、可朝の門下から、その弟子の八方の門下に移り、30歳の誕生日に「月亭方気」の名で新たなスタートを切る。ある日、吉本のマネージャーからかかった電話が、金沢移住を決断させた≫
当時、北陸を担当していた吉本のエリアマネージャーから打診がありました。
「石川の『住みます芸人』になりませんか」と。
彼は高校時代の部活(ボート部)の2年後輩やったんです。縁を感じて、地元に貢献しようと金沢への移住を決めました。
師匠に相談すると「若いうちにしかでけへんこと。地方でしっかりメディアの勉強をしてこい」。ただ、クギも刺されました。「上方の落語家やねんから、いずれは大阪に戻って、きっちり落語をせえ」。
おかげさまで、金沢では北陸朝日放送(テレビ朝日系)の情報番組でレギュラーのリポーターを務めました。番組の企画で、県内の銭湯65ヵ所を巡回してリポート。銭湯めぐりの趣味が仕事につながったんです。
並行して「銭湯じゅずつなぎ寄席」と題し、銭湯の脱衣場でお客さんに落語を楽しんでいただく会も続けました。
脱衣場が寄席に早変わり
≪近い将来、また大きな転機を迎えそう≫
師匠に言われた通り、ぼちぼち大阪に戻ることを視野に入れています。
米朝一門の名に恥じないよう、上方の落語家として古典落語をきっちりやりたい。
いずれ、月亭一門のお家芸である「算段の平兵衛」「住吉駕籠」「坊主茶屋」に挑戦して、お客さんに聴いていただきたいです。
それから、「住みます芸人」の経験を活かし、石川のよさを広く知っていただけるよう活動するのが目標です。(※4)
文・んなあほな編集部 写真提供・月亭方気
※1 吉本興業が地域の活性化に一役買おうと、所属タレントを地方に定住させるプロジェクト。地域のイベント、BSよしもとの番組などが活躍の場となる。2025年7月現在、全国で107組が活動している。
※2 第7回新人お笑い尼崎大賞(漫才の部)
※3 つきてい・かちょう(1938-2018)
三代目林家染丸、三代目桂米朝に師事。1969年に発表した曲「嘆きのボイン」で一世を風靡した。
※4 「七尾市ふるさと大使」を務めている。