11月14日に亡くなった林家市楼くんへの追悼文を、同門であり、「んなあほな」の編集員でもある林家愛染さんと、親子二代にわたりとくに親交の深かった内海英華さんにお願いしました。
林家市楼 兄様
僕はお兄さんのことが大嫌いでした。
祖父は三代目林家染語樓、父は四代目林家染語樓という噺家一家に生まれ、2001年に父親に入門。父の前名「市染」と、「染語樓」からそれぞれ一字ずついただいた市楼という名前からもわかるサラブレットの輝きがとてもまぶしく、そして三代続くDNAは落語センスの良さ、鳴り物のうまさ、きれいな大阪弁、そして酒好きという噺家としては最高の形で継承されていましたね。
カッコつけのくせに不器用、寂しがり屋なくせに素直じゃない、神経質なくせにわがまま。後輩には偉そうに振る舞い、酔っ払っては電話で説教してくるくせに翌日には謝ってくる。なんだか生意気でどうしようもないヤツに思えるのに、実際には人徳で多くのひとに愛され、心配され、常に話題の中心にいる。そんな兄さんが羨ましくて仕方なかったです。
お父さんとおじいちゃんのこと、いわば「染語樓」が大好きで、口を開けば必ず「親父が」「おじいちゃんが」と話題にし、おじいちゃんである三代目染語樓師匠作の落語もしょっちゅう口演しては歴史に名を残す。お兄さんからは常に染語樓愛が溢れていて美しかったなぁ。
僕が修行中、お兄さんはいろんなことを教えてくれましたね。楽屋での振る舞い方、鳴り物の叩き方、打ち上げでの態度、先輩に好かれる方法、上手なサボり方などなど。さらに頼みもしないのに先輩方をしくじる方法も実践してくれましたよね。生意気な態度でいて楽屋の空気を悪くする、要らん一言で人間関係を険悪にするなど。書ききれないくらいたくさんの失敗を僕の目の前でしていたのは、ひょっとして「俺のマネしたら失敗するからお前は気をつけろよ」というメッセージだったんですか。
でも、僕が今日までこの世界でやってこられたのは、おせっかいで悪名高いお兄さんのおかげなのかもしれません。いい意味でも悪い意味でもお手本になったからです。だからお礼を言おう、恩返しをしようと思っていたのに……。
こんな噂を聞きました。噺家仲間にご馳走したりたくさん奢ってあげたりして、お礼を言われると必ず「俺はエエから後輩たちに同じ思いさしたって」って。どんだけ後輩思いなんですか。どこまでカッコつけなんですか。
僕はお兄さんみたいにはなれません。人間の器がお兄さんとは大きく違いすぎるのです。あまりにも存在感がすごくて偉大で、憧れなんかは通り越して雲の上の人なのです。ただ、本当に雲の上の人になったのは笑えないです。
もうひとつ笑えないのは、やっぱり酒での失敗です。「酒で〇〇さんに怒られてた」「飲み過ぎで起きられず遅刻した」なんて噂は絶え間なく聞こえてきて、同じ林家としてバツの悪い思いをしながらも、大丈夫かいなと思わずにいられないほどでした。そして、とうとう酒でとりかえしのつかない失敗をしましたね。
11月13日、奄美大島のすぐ南にある加計呂麻島で開催されたマラソン大会の5キロ男子の部に参加して完走。しかしその時もお酒を結構飲んでいたと聞きました。そして帰阪して翌14日夜、お店でまたお酒を飲んでるときに倒れ、そのまま帰らぬ人に。酒がすべての原因じゃないんでしょうが、酒を悪者にしてしまうという大失敗です。
享年42歳。早すぎるんとちゃいまっか。来年も加計呂麻島に行って現地の方々と会うって約束したばかりとちゃいますか。
お父さんと同じくらいお世話になった林家染丸師匠から、お兄さんに五代目として林家染語樓の名前を追贈することが決まりました。よかったですね、お兄さん。大好きだったお父さんとおじいちゃんに胸張って会いに行けますね。
お別れの日、市楼としての最後の姿、そして五代目染語樓の最初で最後の姿を見送ろうと、会場に入りきれないほどの大勢の方が参列してくださり、収まりきらないほどのお花が届きました。そんな中、主役であるお兄さんは、誰よりも高い位置で、目立つ場所にいてるのに、目を閉じたまま。みんなが呼び掛けても返事せず。お花で周りを埋め尽くしても動かない。
兄さん、目ぇ開けてみなはれ。ぎょうさん来てくれはりましたで。
兄さん、よぉ聞いてみなはれ。ぎょうさん泣いてはりまっせ。
兄さん、胸の上にあるもんわかります?それ、染語樓の看板でっせ。兄さんのでっせ。
最後、出囃子「あばれ」の演奏とともに皆で旅立ちを見守りました。でも最後まで兄さんは愛想の一つもなし。ホンマに殺生でっせ、お兄さん。
やっぱり僕はお兄さんのことが大嫌いです。だから僕は決めました。お兄さんより絶対に長生きしてみせます。そして、僕が生きてる間はお兄さんのエエことも悪いことも全て語り継いでやります。上方落語の歴史に“愛されていた稀代の噺家”としてお兄さんの名前を残してやります。
そして、僕がそっちに行ったら「これからこっちに来る噺家、全員お兄さんのこと知ってはりまっせ。いいことも悪いことも全部。」と言うんです。そしたらお兄さんはなんて言うてくれますか。
またお兄さんの声聞くの楽しみにしてますからね。
その日まで、さようなら。染語樓兄さん。
林家愛染拝
林家市楼くんへ。
五代目林家染語樓くん。
いや林家市楼くん。
いやいや鹿田圭人くん。
ビックリしたわ!
一番ビックリしたのは貴方自身やろけど。
しかし早すぎるよ!
42歳って。
そんなに慌てて逝かんでも。
私は貴方のお父さんの四代目林家染語楼さんとお囃子で雇われて、太鼓と三味線セットでしょっちゅう一緒にお仕事させてもらってました。
だから子供の頃から知っていた貴方がお父さんの弟子になりたいと私に相談にきた時は
「そんな甘い世界ではないよ!」と止めたのですが貴方はめでたくお父さんの弟子になりました。
お父さんは寡黙な人なので貴方が失敗や、お行儀の悪いことをしても怒らずジーッと貴方の事を見ていました。
反対に体育会系の私は貴方を叱ってばかりでした。
一度お父さんに
「お兄ちゃん、ちゃんと市楼を怒ってよ!」
と言ったら
「英華頼むわ。」
だから仕方なく怒っていたところもあったと思います。
そして貴方の修業の年期があけてしばらくしたら。
お兄ちゃん、いやいや四代目林家染語楼さんは55歳で旅立って逝かれました。
それからは貴方を先輩方が注意してくださっても、誰の言うことも聞かず誰も止められなくなったのです。
それでも最近は少しずつ素行も改めて、ネタも染語樓ユズリの新作落語にも「あーお父さんに似てるなぁ!」と思えるようになってきていたのに。
突然逝ってしまって。
そんなに早く逝くのだったら、もう少し優しく接すれば良かったと悔いが残ります。
そちらではお爺ちゃんの三代目染語樓師匠に大好きなお婆ちゃん。
お父さんの四代目染語樓師匠にお母さん。優しく迎えてくれている事でしょう。
貴方のお姉さんは、「先にお父さん達に会いに行った。ちょっと焼きもち焼くわ!」って言ってましたよ。
ひとつだけお父さんが貴方に言ってなかった事を教えてあげますね。
お酒を飲みながらお父さんが珍しく貴方に
「お前は目の前をウロウロするな!邪魔なんじゃ!帰れ!」
と言って貴方が帰ったあと
「圭人が落語家になってくれたのはホンマは嬉しいねん。」
って言うてはったよ。
良かったね。
お父さんにあったら、しっかりお稽古してもらってね。
ほなまた、お疲れさんでした。
内海英華
市楼くんは、令和4年11月14日の夜、酒場で倒れそのまま逝ってしまいました。
筆者も参加している落語家の草野球チーム「モッチャリーズ」の一員でもありました。
我がチームでは来年ユニホームを新調する予定で、市楼くんからも「私は背番号25番でお願いします」とグループラインに貰っていました。その時間が11月14日の午後6時11分。
その数時間後に亡くなってしまうなんて。
やんちゃで問題も多々ある子でしたが、芸人としてのフラもあり、なにより今の落語家の多くが(私も含めて)持ち合わせていないいわゆる芸人らしさを持っている落語家でした。
数年前に「景品で32型のテレビ当たったんですけど、うち置いとくとこおまへんねん、2万円で買うてもらえまへんか」。そのテレビ、毎日見せてもらってるよ。
文・桂 枝女太