桂 三実(かつら さんみ)
生年月日 1993年(平成5年)5月1日
入門年月日 2012年(平成24年)5月20日
六代文枝門下
出身地 愛知県名古屋市
[入門動機]
「中三(15歳)のとき、枝雀師匠のCDを聴いて落語にハマりました」
と第一声を放った三実くん。その後、テレビで三枝(現六代文枝)師匠の創作落語『鯛』を観る機会があり、よしもとの中でも怖~いイメージ(?)を持っていたのが払拭したという。そこで彼は思わず呟いた。
「三枝、やるやないか」
「すごーい!」
それからというもの、三枝落語のCDをTSUTAYAへ借りにいくのが日課となったらしい(レンタルかーい)。
そのうちに芸人になりたいとふつふつ思いはじめた。そして「自分でも落語を創ってみたい」と。
高三になり、師匠の私設事務所のHPのお問い合わせフォームに「入門したいんですが…」と書いて送信。かなり珍しい志願方法だ。でも、いまどきとも言える。すると先方から「入門に対する想いを綴った手紙と履歴書を送ってください」と返ってきた。この対応も笑えるではないか。
それからしばらくして、三枝師が名古屋の中日劇場に出演するとの情報を得て、お父さんと楽屋を訪ねたが、いつまで経っても師は現れない。仕方なく客として生三枝を観た。でもそのときのステージは立ち高座のトークだけ。
「なんや。落語ちゃうし~」
高校を卒業したものの、師からは音信不通のまま。将来の進路に不安を抱えているとき、一筋の光明が射した。「両親と一緒に大阪に来なさい」と連絡が入ったのだ。いよいよ時機到来か。喜び勇んで事務所へ参上し、三枝夫妻と面談。そこでようやく弟子入りの許可が下りたという。
「ああ、やっと入れた~!」
親子は抱き合って喜んだ。
「遠路はるばるご苦労さん」と師匠がねぎらいの言葉と共にお弁当を出してくださった。
「あれ? Hotto Motto(ほっともっと)の宣伝してるのに、これ、ほっかほか弁当やん!」
[修行時代]
さあ、晴れて弟子になったはいいが、師に付いてまわる日々がはじまる。自由な時間はなし。同じ世代の男は、恋人を待っているのに、自分は師匠を待っている。同い年の友人は、彼女のプレゼントを持っているのに、自分は師のカバンを持っている……。
一番大変だったのは、師匠がよく忘れ物をされるので、予備に「これも持っていく、あれも入れていく」と、カバンの中身がどんどん膨れあがっていくことだ。今度はそれを自分が忘れないか心配で心配で。
こんなこともあった。師の車の運転は運動神経の優れている兄弟子の三語が任されていたのだが、その日、三語は別の仕事で留守をしていた。仕方なく免許取り立ての彼が一度だけ軽自動車で新大阪まで師を迎えに行ったことがある。バックミラー越しに後部座席を見ると、師匠はしっかりベルトにつかまって怯えた顔でブルブル震えていたそうな。
2012年夏、六代文枝襲名ツアーがスタート。各地を旅し、いろんな芸能人に会うことができた。「いまから思えば、苦労は多かったですけど、楽しいことのほうがもっと多かったですね」と彼はニコニコ笑顔で振り返る。
[初舞台から現在にいたるまで]
入門1ヶ月めに芸名をいただいた。画数の8画がいいということで、よく実るように「三実」と名付けられた。
初舞台は「三語・三度ふたり会」(於:道頓堀ZAZA)の前座。
年季が明けると、淡路島洲本市へ2ヶ月間の「住みます芸人」として任命された。温泉地で毎日のように公演をすることで舞台慣れしてきたが、同時にお世話になっている農家で農業も兼任することに。農8落2。ピーマンの袋詰めをしている間に、子どもからは「緑のおじさん」と呼ばれてしまう。
昨年から自分の会をはじめた。空堀商店街の「からほり 悠」にて「桂三実のどえりゃあ落語会」。古典も創作も型破れなことをやる会だそうだ。また、天満のツギハギ荘では、「三実とだいぶ年下の後輩たち」も。これには男性版と女性版があるとか。ぜひ一度足を運んでみてはいかがだろうか。
[未来予想図]
関西では毎日のように落語会がいたるところで行われている。なかなか動員が大変だ。そこでなんとか人を集めるために、普通とは違った、ちょっと切り口の変わった会をやっていきたい。「今日だけオチを変えてみました」というような。
そして、自作の落語をもっともっと創っていきたいと大いに意気込んでいる。
「もちろん古典も頑張ります」
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「いい女性がいたら紹介してください……。あ、ちがった。自分が15で落語にハマったのだから、十代、二十代の若い人も、どんどん観にきてくださーい!」
【取材・文 月亭文都】