将来の名人に聞く 【桂慶治朗 編】
【桂慶治朗】(プロフィールは名前をクリック/別のページに移動します)
「そうだ、落語家になろう!」
これは上方落語協会の求人広告でもJRのキャンペーンでもなく、唐突に彼はそう思ったらしい。
大学卒業後、不動産会社の営業職に就いて1年ほど経ったころ、
母親から「桂枝雀のDVDを買って来て」と頼まれたのがきっかけで、
それまで全く興味の無かった落語を観るようになり、ある日突然、文頭の考えに至った。
その後、今の師匠である五代目桂米團治を知る事になるのだが、そのいきさつが面白い。
「スベらない話」という番組で、東京の三遊亭圓楽が米團治のエピソードを披露した時、
その内容に「人柄の良さ」を感じたというのだ。
番組の性質上、本人を称賛するような話ではなかったはずだが、にもかかわらず人柄に惹かれたというのは、
米團治の人徳なのか、圓楽の話術の巧みさなのか…
ともかくそこから「この人の落語を聞いてみたい」となるのだが、ここらが現代。
寄席に足を運ぶでもなくCDを購入するでもなく、ネットで動画を検索し「親子茶屋」を閲覧。
この一席だけを聞いて「これをこのままやりたい」と決意を固め、休日に米團治の出演する落語会を調べては、
あちらこちらと通い詰め、京都の松尾大社で開催されていた落語会の楽屋口で、いよいよ声をかける。
普通ならここは「弟子にして下さい!」と熱意を込めて言うところだが…
彼は「お疲れ様でございます。最近ちょっと寄せてもろてます」と、
営業マンの性なのか、冷静な初対面の挨拶だけをして帰ったという。
そしてここから怒涛の追い上げを見せる。
2週間後、改めて繁昌亭で入門志願の手紙を渡したところ、
翌日に動楽亭近所の喫茶店で弟子についての心構えを聞かされ、その10日後には母親とともに自宅へ。
その場で慶治朗という芸名をもらい弟子入りが決まった。この間わずか1ヶ月足らずで入門が叶ったことになる。
米朝一門は基本的に3年間の修業期間があり、そのあいだに10席のネタを稽古することになっている。
(最後に教わる演目はトリに出してもよい大ネタで、師匠がリクエストを聞いてくれる場合が多い)
師匠の家に住み込む内弟子と通い弟子があり、彼は大師匠の三代目桂米朝が存命だったこともあって、
週の半分を米團治、もう半分を米朝宅で過ごす通い弟子となった。
誰しも修業中には何らかのシクジリはするものなのだが、彼の場合米朝と米團治、
両師匠の車をぶつけるという荒技をやってのけた。しかしこれはそもそも師匠が二人いないと成立しないので、
普通の弟子はやろうと思っても、なかなか出来るものでは無いが…。
多少の失敗をしながら迎えた3年目。なんとか9つの落語を覚えた慶治朗が最後に選んだネタは
「はてなの茶碗」だった。この噺は「京都を舞台に、通称「茶金」こと茶道具屋の金兵衛さんと、
勘当され仕方なく油を担いで売り歩いている大阪の男が、一つの茶碗をめぐって思わぬ大金を手にする」
というストーリーなのだが、公家や帝までが登場する壮大な物語の為、若手の演者には難しいとされている。
あえてこれに決めたのは、以前に米朝とこの噺の話題になった時
「(今の私に)とても茶金さん(の重厚な表現)はできませんが、油屋の方を(若い自分なりに)工夫して、
また違うやり方があるんやないかと思てます」と自身の意見を言ったところ、
「ええこと言うたな」と褒めてもらえたので、なんとかこの落語を突き詰めてモノにしたいと考えた結果でしたと語る。
通いながらの修業を終え、2年前からは半年に1度「桂慶治朗落語の会」を動楽亭で開いている。
そこでは「自由研究」というコーナーを設け、毎回トリネタに絡めた話題をパネルなども使いながら
展開している。例えば「皿屋敷」には「怖い話」、「つぼ算」だと「心理トリック」という構成だ。
筆者も実際の高座は見ていないので、興味のある方は是非ともご来場を。
最後に落語について聞いたところ「突然に飛び込んだこの世界ですけど、やればやるほど知れば知るほど、
果てしないなと思います。どれが正解かもまだ分からないし…」と暗中模索の様子。
まあ若いうちはあれこれ悩むのも良いでしょう。ふとしたことで道が開けるかも…。
そう、かつて君がこの道を選んだ時のように突然に…それこそが天のからの慶治だ朗(啓示だろう)
(文中敬称略) 文・桂米平